DJ YAS 日本のHIP HOPシーンOG世代の重要人物の、今日までの道程に迫る part2

4月19日(日)、緊急事態宣言下の東京なので、オンラインにてインタビューを敢行した。
“DJ YAS” HIP HOPミュージック、とりわけ日本のHIP HOPシーンを愛する人間で、この男を知らない者はいないだろう。(このことばかりで語られることは、あまり望ましいことではないかもしれないが、)あの歴史的ヒット作 “証言” のプロデューサーである。

当方がレギュラーで出演させていただいている、”SUPER PLUME”というHIP HOPミュージックのパーティ(渋谷CONTACTにて開催)にて、僭越ながら共演させていただいている繋がりもあり、今回DJ YASさん(以下YASさん)はインタビューを受けてくださった。
彼がカルチャーの礎を創ったあの頃のこと、そして現在の活動への向き合い方まで、伺った内容を余すところなく記したいと思う。

“証言”リリース後のキャリア

“証言”リリース以降、プロデューサー業(主に楽曲制作)のオファーが途切れることなく舞い込んだ。そして、仲間のラッパー達のライブにDJとして出演し、毎週のように全国各地を回った。

 

日本語ラップは一気に浸透していった。ただ、「俺たち皆まだ若かったから、音楽業界の知識やノウハウも全くなかったから、そっから先どうすれば良いんだっていう答えがなかった。参考にする先輩もいなかったし。」とYASさんは云う。

 

そこから各メンバー道が別れていった。YASさんはその当時から、自分でレーベルを作って、自分で音楽を輩出したい、という思いが強くあった。当時はメジャーからのお誘いもかなり来ており、周りのラッパーの方々は皆契約していったが、

「結局そういう権利とかは売り渡しちゃうんでしょ?みたいな。それは将来的に嫌だ、と思って。その分先にお金はもらえるんだけど。制作費600万とか、1000万とか、先にくれるわけよ。そのなかで制作してください、と。アーティスト印税とかはもらえるけど、でも自分の楽曲なのに、(年月が経ったときに)自分がコントロールできなくなることってどうなの?って。」

 

そういう思いを抱きながらも、二社(えん突つレコーディンングス、HIBACHI LABEL)から1枚ずつのアルバムと数枚のシングルをリリースするという道を選んだ。(後年、それぞれのレーベルから原盤を引き取る事となる)
“証言”リリースのときに、(そのときはまだ名義だけとは言え)”えん突つレコーディングス”というレーベルを立ち上げており、お金をもらえる立場にもなってた。そして、海外には自主レーベルで楽曲を出してるDJもいた。だからこそ、なんとか自分でやりくりしていく方法を模索しようとしていた。

 

「俺は死ぬまでやるつもりだったから、10年20年で自分のものじゃなくなるくらいだったら、自分で管理してた方が良いっていう、10年20年経って、自分がデカくなって、自分自身で楽曲に価値をつけてやる、っていう」思いだったそうだ。

プロデューサー業(楽曲制作)、ライブDJに加え、新たな動きがひとつあった。
現在まで続いているHIP HOPミュージックのパーティ “TIGHT” の開催だ。
以前に仲違いをし、かかわりを絶っていたクラブ CAVEと98年に和解し、そのタイミングで何かパーティをやらないか、と持ちかけられる。そして、DJ QUIETSTORMさんとともにはじめたのがTIGHTだ。全国各地を飛び回っていた時期だが、金曜はスケジュールが空くことが多く、毎週金曜に”TIGHT”を開催することになった。

 

翌年に会場を西麻布の“YELLOW”に移し、月次開催に。99年には“BLUE HERB”をゲストに呼んだ。二度目の東京公演でありBLUE HERBがフルメンバーで東京でライブをやったのは、それが初めてだった。そのころから、BLUE HERBと東京勢が交わり始める。
その後も、渋谷の“NEO”や“club asia”など、ほぼ毎年会場を移しながら開催してきた。

TIGHTでの様子(DJ YAS, DJ QUIETSTORM)

ソロデビュー、そして、”KEMURI PRODUCTIONS” 設立

2000年にDJ YASとしてのファーストアルバムを出した。ソロデビューということになる。
それがきっかけで、また凡ゆる依頼を受けることとなった。とにかく、ものすごい勢いで楽曲制作を行っていた。

 

“証言”リリース時に名義を作った“えん突つレコーディングス”は、その後音楽業界の裏方の人を雇い入れて社長にし、法人化したが、一組織としてはなかなか運営がうまくいかず、YASさんも「このままじゃ埒が明かない」と感じていた。
そこで、2002年に独立。以前から、自身でレペゼンしていたワードを用い、有限会社 KEMURI PRODUCTIONS を設立した。プライベートレーベルという位置付けでKP RECORDSという別看板を掲げ、並行して二社に携わる時期を経た後に現在も運営している。

 

しかし、KEMURI PRODUCTIONSにはもうひとつの顔がある。ライブDJパフォーマンスのグループとしてのKEMURI PRODUCTIONSだ。
1995-2005年くらいの間で活動しており、メンバーは、DJ KRUSHさん、DJ KENSEIさん、名古屋のDJ Hazu(刃頭)さん、DJ HIDEさん、そしてYASさん

 

5人のDJで10台のターンテーブルを並べて、一斉に音を出す、というもの。メンバーにしろ、仕掛けにしろ、それはそれはとんでもないものだ。
DJ KRUSHさんは、その当時には既に世界的に有名になっていたので、共演できる回は多くなく、4人でパフォーマンスすることが多かったそうだ。
その当時の映像は、ほとんど残っていない中、YASさんが過去のVHSを掘り返し、映像を発掘してくれた!!! まさにお宝映像である。そちらのほんの一部を公開↓

続きは、近日オフィシャルで公開する可能性有り、、とYASさんは仰っていた。

このように、多岐に渡る活動をされていたのだが、YASさんにとっては三本柱のイメージだったという。
トラックメーカーとしてやりたいことを、ラッパー集団のLamp Eyeや雷とともに(活動としては一番ウェイトが高かった)、
ライブDJとしてやりたいことをDJグループのKEMURI PRODUCTIONSを通して、
シンプルにミックスをするクラブDJプレイの発信をTIGHTにて。
これらを同時に行っていたのだ。

渋谷CONTACTにて、DJ KRUSHさんの誕生日をお祝いしていたときの一幕
(DJ KENSEI, DJ KRUSH, DJ YAS)

飛び抜けること、バランスをとること。暗闇時代に学んだこと

ひたすらに活動に没頭し、気がつけばworkaholicになっていった。

喜びを感じる隙間がなくなっていった。
本末転倒。なんのためにやっているんだろう。
楽しくない。麻痺しちゃってる。幸せがわからない。
お金でもない、もしかして音楽でもない?家族?

そんな心境だったそうだ。

 

そこから、見つめ直す旅が始まった。
やりすぎて分からなくなってから、自分の中では暗闇の時代だった、とのこと。


時期としては、2009年頃から。
リリース直前にレーベル(当時、共同団体の一つとして、別に立ち上げた)が解散するなど、やってもやっても裏目にでる、とも言えるような不運が続いた。
「そのときの選択が、間違ってたと言いたくないけど、最善じゃなかったことは多々あったと思う。人生って色々あるなぁと思った。」
仕事のみならず、プライベートでも試練が続いた。

 

しかし、その状況に関しても、何かのせいにしようとしてた自分がいた、と振り返る。ちゃんと見つめれば、おざなりにしている部分がたくさんあって、ちゃんとしなきゃと思いつつ、急に自分を変えられないから、時間をかけて自分を変えようと努力した、と語る。

 

そんな状況だったので、2009-2014年くらいの間は、楽曲制作のペースも顕著に落ちた。
「それまで自分の家庭では任せっきりだったけど、母親優先のご飯をつくるとか掃除洗濯の家事全般はもとより、役所に行って色々な手続きするとかを繰り返しやってると、世の中の奥さんって大変なんだなって実感した。」
このような気付きもあったという。

 

YASさんは、自身の人生において音楽は非常に大事なものであるが、それ以外のものもどこかで育んでいかねばならない、でないと、どこかでバランスが崩れる、と云う。やりたいことはすごく重要。だが、やりたいことだけをやってたら、どっかで必ず壁にぶつかる。

ただ、最初からずっと並行してバランス良くやろうとすると、飛び抜けるってことが今度はできなくなる、とも。

「バランス崩しちゃうかもしんないんだけど、そういうモチベーションになったときは、何かを犠牲にして飛び抜けた方が、俺はいいと思ってる。ただ、その分、後付けで代償が来るよ、っていう。だけど、飛び抜けないことには、なかなか次の世界に、自分の次のレベルにいけないから。世の中そんなに甘くないから。すごい人いっぱいいるからね。瞬間でもいいから飛び抜ける時間は飛び抜けて、その間は、ろくでなしと言われようが、俺はいいと思ってる。人殺しとかしなければね。自分に返ってくるから、やっちゃった分は。全部自分に返ってくるからね。」

 

筆者としては、突出する人は、比較的短いキャリアの人が多いように思うが、それは、やりたいこと「以外のこと」との折り合いがつかなくなることが原因の大部分なのかもしれない。
確固たる「飛び抜ける」時期を経験し、ゆえに、それ「以外のこと」との折り合いのつけ方に苦しむ時期をもあったが、それを経て長いキャリアを歩み、YASさんの今があるのだということを、ひしひしと感じる言葉であった。

The 45 Kingとの秘話

The 45 King氏は、最もYASさんが影響を受けた一人。New York、Bronx出身のDJ/プロデューサーで、代表作のひとつは“The 900 Number”。

 

YASさんが17歳のとき、The 45 King氏初来日のライブに足を運んだ。そこで、彼らが新譜のレコードを会場に向かって投げて、YASさんはレコードをキャッチ。そのレコードを手に、絶対にDJになるんだ!と、熱く胸に刻んだそうだ。

 

2012年、The 45 King氏が、著名なDJを招いて行うトーク番組を新たに開始する。第一回のゲストはDJ Premier氏。The 45 King氏とDJ Premier氏は、両者ともYASさんの5本指に入る、尊敬するDJなのだ。
YASさんは番組の情報をTwitterで知り、「こんなんあるんだ!これは見たい!」と、朝方寝る前に見ていると、まさかの番組始まって一曲目に自身の曲がかかった。知らされていたわけでもないので、びっくり仰天である。

 

それより4、5年前(2006,2007年頃)に、ジャパンツアーで日本に訪れていた本人にまとめて自身の楽曲のレコードを渡したことがあった。「俺は、あなたを見てDJを志した。良かったら聴いてください」と。その中の一曲を、彼が番組冒頭の曲に採用したのだ。

 

自身の曲がかかって「どういうこと!?」と驚くのはもちろんのこと、この時期は、精神的にもやや弱っていて、かすかに「DJ辞めようかな」と思ってたりもしていたもんだから、「ああ、続けてて良かったなぁ」と染み染み思ったという。彼に救われた、と感じたそうだ。

実際の映像:楽曲「子供達に未来を」

DJ YASの今

かつて、日本のラップシーンを世に広めたい、そう強く志し活動に明け暮れた。
現在は、
「日本のラップシーンって今すごく広がったから、そこに対して今言うことは正直俺からは何もないかな。俺が夢描いていた世界は達成されたから、今はもうその先のステージに入っちゃってるから、陰ながら応援する、という立ち位置。」
と考えているそうだ。

 

「好きでやり続ける人生、その人生を大切にした生き方を俺は見つけるべきなんじゃないかなって。あくまでもこういう世界って、後からお金がくっついてくるから。稼ごうと思って入ってくるんだったら、入ってこない方が良いわけで。稼ぐことは目標であってもいいけど、最優先であるなら、やめたほうがいいよっていう。
最初に好きなったときの衝動を、俺はこの年になっても一生変わらないものだと思ってる。」

YASさんにとっては、17歳のあの日に、ターンテーブルの前に立ったときのあの衝動が、今も鮮明に残っているのである。

 

「人前に出る出ないは時期によってあるかもしれないけど、好きなものを好きであり続ける人は、俺は好きだし、俺もそうありたいなと思う。」
と、長いキャリアだからこそのこうような言葉も。

「今は、好きな音楽をつくる。いくつになっても俺は俺でいよう、って。
相手にされなくなったらそれまでだけど。
5年後があるなら、同じこと言ってたいな、ってね。
自分のライフスタイルはそんな風に見出してる。」

日本のHIP HOPシーンの歴史をつくり、様々なシーンの変遷を経験し、30年以上のHIP HOPアーティストとしてのキャリアを経て、「好き」に対する追求は更に純度を高めていくのである。


★プレゼント企画★
最後まで読んでいただきありがとうございます!
この度、YASさんからの粋なご提案で、読者のみなさまにプレゼントがございます!!
記事の中にも登場した、The 45 King氏が番組でかけたという “子供達に未来を” という楽曲が収録されたアルバム “Angler Fish” を抽選で3名の方にプレゼントいたします。

ご応募は下記まで^^
送り先:ttrenchantt@gmail.com
件名:DJ YAS プレゼント応募
本文:氏名(本名)/ 送り先の住所/ 電話番号

〜 END 〜

May 8th / 2020

Interview & Writing: Jasmine

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