新たな大人の集い場 “COUNTER CLUB” が下北沢にOPEN その背景と歴史をraudicaことCASHYの半生とともに紐解くpart1

きたる11/1(Fri)のCOUNTER CLUBのオフィシャルオープンに際し、10/25・26(Fri/Sat) の2日間でレセプションパーティが開催された。関係者達が所狭しと駆けつけ、新たな大人の集い場を堪能した。
COUNTER CLUBは、中目黒のアンダーグラウンドミュージックシーンを牽引するクラブ”Solfa“の系列店として下北沢にオープン。Solfaの存在なくして、COUNTER CLUBを語ることはできない。新たなベニューのオープンに際し、Solfaの店長を務めるraudica こと CASHYさんの半生を追い、更に地下音楽世界への高揚感を高めていきたい、そんな思いでインタビューを行った。

“Solfa” = 音楽重視型クラバーには欠かせない場所

昨今では「中目黒のシーン」と呼ばれるほど、アンダーグラウンドミュージックが盛んになったエリアだが、そこに至るまでに大きく貢献した要素のひとつがSolfaである。
2008年9月にオープン。ヒップホップミュージックやハウス、テクノなどの四つ打ちと呼ばれる領域の音楽を軸とし、枠に捕らわれず、常に新しいアイディアを取り入れながら日々のパーティを展開している。
「クラブ」とざっくり言っても様々あるが、ひとつの見方として、クラブ側が「どういうパーティを展開していくか」に強く意志を持つタイプと、飽くまで「箱」として機能させるタイプに大別できる(いずれにしても0か100かという話ではないが、どちらの色が強いか、というひとつの見方)。Solfaは明らかな前者で、一定数のパーティをSolfa側が企画し、世間的な評価に振り回されずSolfaの観点によるセレクトで国内外から”おもしろい”アーティスト面々をフック。内装のアートや、アパレル部門でのタイアップなど、いちべニューとしてのアイデンティティを色濃く発するパッションを至る所に感じさせてくれる。
そんなわけで、Solfaそのものにつくファンが多く、特定のイベントめがけて、だけでなく「Solfa」めがけて足を運ぶクラバーたちが多くいるのでる。

Photo by: Miki Iwasa

Solfaの顔

Solfaの店長を務めるのがDJ名 “raudica”ことCASHYさん。Solfaファン≒CASHYさんファン と言っても過言でないほど、男女問わず絶大な信頼を集める存在だ。そんなCASHYさんがSolfaの顔に至るまでを、根掘り葉掘り伺った。

地元 長野から東京へ

CASHYさんは高校生の頃、憧れをもって通いつめたアパレルのセレクトショップがあり、そこにDJセットがあったことが、DJやヒップホップミュージックと出会い、興味を持つ最初のきっかけであった。そのお店の方が、CASHYさんにとっての所謂「イケてる先輩」で、お店に通ううちに仲良くなって、時に店番をさせてもらったりもし、DJのやり方、レコードの掘り方なども教えてくれたそうだ。その先輩のプレイスタイルには、思い返すとかなり影響を受けたという。
また、同様に高校時代バスケットボールにしのぎを削っていた(未経験ではじめながら、部長を務めインターハイに行く功績まで残したそう。才能はここにも…!)。寮生活だったそうで、その寮の中では各代で「美容師」みたいな存在が現れ、その「美容師」は学年全員の髪を切る、という慣習があった。CASHYさんはその「美容師」となり、その経験から本当の美容師になることを考える。
ヒップホップミュージックやDJとしての熱を胸に秘めつつ、美容師になることを志し、高校卒業後、東京の美容専門学校ベルエポックに進学する。

東京でのDJとしての駆け出し

CASHYさんが上京した当初、規模の大きなイベントクルーが2つあった。”FIVESTAR” と “ninety ninteen nine”。FIVESTARは、現在の”ASOBISYSTEM“の前身。上京したそばから、「とにかくデカいとこでDJしたい」と考えたCASHYさんは、その2つのうち、比較的コアな音楽性であったninety ninteen nine(通称 ナイナイ)の仕切り役の人にミックステープを渡し直談判、その結果レギュラーDJの座を勝ち取った。ファッションモデルもDJをやったり、雑誌とのタイアップもあったりと、地下音楽というよりは、表舞台のイベントであった。「まぁ飽くまでも学生のイベントクルーだったからね」とCASHYさんはいうが、その当時、いまほど遊び場の数も種類もなかったこともあり、盛り上がる場所には人が気持ちよく一挙集中する為、相当な盛り上がりを見せていたようだ。今はなき、恵比寿の”Milk”という箱でDJデビュー、その時期は2000年代ヒップホップやR&B中心に、アナログ(レコード)でプレイしていたそうだ。
もちろんこの時期は、美容専門学校の学生である。毎月ストリートスナップで雑誌に載って、学校のパンフレットのモデルまで務めたそう。美容関係の繋がりが、DJサイドに影響することもあり、美容関係のイベントでのDJをやることも多々あったとか。時代をひっぱる若者としてのオーラを纏って、多くの人を惹きつけていたことが眼に浮かぶ。

 

満を持してパーティオーガナイズ

DJとしてのキャリアを着実に積みつつ、次に向かうのは自分自身でパーティをオーガナイズすること。2005年、今はなき下北沢のクラブ”Wedge”にて自身のパーティ “Mixed Juice” を開催しはじめる。当時三軒茶屋に住んでいて、近くがいいなというところからWedgeに辿り着いた。三軒茶屋なので当然渋谷は近いが、「渋谷はちょっと違うなぁ」という感覚があったそう。仲間とたまたま見つけたWedgeに飛び込んで、イベントやらせてください!と頼んだ相手が、今のSolfaやCOUNTER CLUBの社長 弾さんだった。弾さんは、その頃Wedgeの店長をやっていた。
CASHYさんがオーガナイザーで且つDJ、メンバーには、現在きゃりーぱみゅぱみゅのVJも担当する 滝紘平さんが映像を、フライヤーやTシャツなどのデザインは Yoshirottenさん、セレクトショップ “HAg-Le” の店長ヨシロウさんはレギュラーDJ、更に数名のDJでパーティを構成。3、4年継続して開催した。

音楽性の変化

入り口としてはヒップホップミュージックからDJ業に入ったCASHYさんだが、WedgeでMixed Juiceを開催している頃には、ハウスやテクノ、或いはダンスミュージックと呼ばれる音楽に傾倒していた。東京に出てきてからの現場では、時代的にも四つ打ちの音楽が台頭しており、「ああこの音楽いいな」と純粋に思ったそう。これらの音楽をプレイする中で、”Air” や “WOMB” での出演機会も増えてきた。AirやWOMBなどの大箱では、圧倒的にテクノやハウスミュージックが盛り上がりの中心であった。
そんな中、音楽における重要なきっかけとなる経験があった。彼は、美容専門学校卒業後、美容師として三年弱働くが、やはり音楽とともにある生活をより濃くしていくため美容院務めを辞め、中目黒にあった “OVO” というミュージックバーで働き始める。それが、中目黒人生、そして、クラブ店員としての人生の始まりとなる。
CASHYさんは、OVOにて所謂オトナでアンダーグラウンドなDJたちのプレイに衝撃を受ける。中目黒のシーンを “創った” といえるDJ “DJ Quietstorm” ことロバートさんが開催していた “Home Sweet Home” というパーティは、CASHYさんにとっても特に印象的なパーティだったそう。ヒップホップのマインドを軸としながら、これまで聴いたことがない新たな音楽が飛び出す、とにかくカオスで最高な場所だったと語ってくれた。このときに受けた衝撃が、その後の彼の発信する音楽性に、時を経て大きな影響を与えることになる。

(Part2 へ続く)

Oct 27nd / 2019
Interview & Write: Jasmine


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