DJ YAS 日本のHIP HOPシーンOG世代の重要人物の、今日までの道程に迫る part1

4月19日(日)、緊急事態宣言下の東京なので、オンラインにてインタビューを敢行した。
“DJ YAS” HIP HOPミュージック、とりわけ日本のHIP HOPシーンを愛する人間で、この男を知らない者はいないだろう。(このことばかりで語られることは、あまり望ましいことではないかもしれないが、)あの歴史的ヒット作 “証言” のプロデューサーである。

当方がレギュラーで出演させていただいている、”SUPER PLUME”というHIP HOPミュージックのパーティ(渋谷CONTACTにて開催)にて、僭越ながら共演させていただいている繋がりもあり、今回DJ YASさん(以下YASさん)はインタビューを受けてくださった。
彼がカルチャーの礎を創ったあの頃のこと、そして現在の活動への向き合い方まで、伺った内容を余すところなく記したいと思う。

HIP HOPとの出会い、DJへの目覚め

YASさんは、西東京市出身。1971年8月16日生まれ。
16歳のある日、4歳上のお兄さんがターンテーブル2台とディスコミキサーを買ってきた。

 

そして、お兄さんが遊びでターンテーブルを触らせてくれたそうだが、ターンテーブルの前に立った瞬間が、後にも先にもあんなに衝動を感じたことはない、これまでの生涯で最も忘れられない瞬間だという。
「上から電気が走ったんだよね。センセーショナル、っていうのかな。何かよくわかんないだけど、俺はこれがやりたい、これに決めた!みたいな。導きだった。」
ようやく本当にやりたいことを見つけた、という感覚だったそうだ。
その後、YASさんは、バイクを売ってターンテーブルを購入した。

 

HIP HOPミュージックに関しても、お兄さんが、ターンテーブルを買ってきた際に聞かせてくれたPublic Enemyのファーストアルバムを聴いたのが最初だった。
その後、Public Enemyに魅了されたYASさん(当時高校二年生)は、日本初来日のライブも行ったそうだが、まだHIP HOPミュージックは日本では流行っているわけでも、さほど認知されているわけでもなかったので、一緒に行く友人を誘うだけでも一苦労だったそうだ。

 

このようにして、DJとして、HIP HOPシーンの一員としての、YASさんのキャリアの幕が開ける。

“DJ KRUSH”の存在、そして80年代の日本のHIP HOPシーン

YASさんが、若かりし頃からDJ KRUSHさんに慕い、言うなれば師弟関係の間柄であることを知る人は多いだろう。二人の出会ったきっかけまで遡る。

 

もとはというと、DJ KRUSHさんの弟さんと、YASさんのお兄さんが、中学生の頃から、所謂ヤンチャ時代の繋がりで、先輩・後輩の間柄で仲良くしていたという。

 

1980年代半ば、YASさんのお兄さんが出場したDJコンテストで、優勝したのがDJ KRUSHさんだった。その後、会場(クラブチッタ川崎)外で、出演後の、赤ちゃんを抱えたDJ KRUSHさんと奥さんとも対面することとなる。凄く大きな存在に感じたそうだ。

80年代中頃当時は、DMC(最も名の知れたDJの世界大会のひとつ)もまだ始まっていない頃で、日本においてはようやくHIP HOPの文化を広めようとする機運が高まりつつあった頃。そんな中、本格的にHIP HOPカルチャーやDJを目指すことに目覚めたYASさんは、18歳になってまず免許を取り、DJ KRUSHさんの運転手をさせてもらうよう申し出たのだ。DJ KRUSHさんはYASさんの9歳年上なので、当時27歳。

 

ちなみに、YASさんの前の運転手はMUROさんが務めていたそうだ。YASさんは、HIP HOPの文化的なことは主にMUROさんから、DJの技術的なことはKRUSHさんから教わったという。

 

DJ KRUSHさんは当時から、DJの大会に出場しては優勝し…という存在で、“大会荒し”としてシーンにおいてはかなり有名だった。楽曲制作の側面においても、当時はまだサンプラーもなかった時代だから、MTRを用いて4chで制作していたそうだ。レコードを使ってブレイクしたドラムを入れ、レコードにBPMを合わせてネタを入れてブレイクビーツをつくり、そこに更にスクラッチ音を入れていく、更には重ね録りを行う、など、やれることは限られているので、あらゆる手法を駆使して楽曲制作を行っていた。

 

そのDJ KRUSHさんの姿を身近で見て、YASさんも自身で機材を手に入れ、楽曲制作を始めたのが、19歳のときだった。
YASさんが、いよいよサンプラーを手にするのは、92か93年頃のこと。
「こんなのがあるんだ、世界はこういうもので作っているんだ」と、サンプラーを中古で購入。そこからはひたすら、自宅で楽曲制作に没頭した。

 

しかし、DJのキャリアを積む第一歩として、YASさんが、付き人(ドライバー)に志願したのは何故なのか。今の時代であれば想定されない選択肢であるが、それは、80年代半ば当時は、そもそもDJとして活動できる場や仕事がかなり少なかった。クラブという点においては、ユーロビート、ディスコ全盛期で、「いかに、集まっているお客さんを踊らせるか」に特化したスタイルに需要が集中していた。HIP HOPやHouseも流行としては出てきていたが、まだまだHIP HOPミュージックをかける場そのものが非常に少なかった。だからこそ、DJ KRUSHさんの付き人として、実際に現場に足を運ぶ、というアクションをとることになったのだ。

Lamp Eye、雷

付き人時代、六本木の“Droopy Drawers”というクラブでDJ KRUSHさんが毎週土曜レギュラーでDJをされていた。それを見て、クラブDJも面白そう、と思ったそうだ(それまでは、ラッパーたちと共に出演するライブDJをやりたいという思いがひたすら強かった)。
そこで、Droopy Drawersで働かせてもらうことにした。半年間は見習いとして、給料なしだったので、ご飯はご馳走してもらって、加えてお客さんの送り迎えをしてチップをもらうなどで、生活していたそうだ。

 

そのDroopy Drawersに、後の“Lamp Eye”のメンバーとなるRINOさんや、GAMAさんが当時はダンサーとして遊びに来ていた。2人はクラブに遊びに来るにつれ、周囲のラッパーの存在もあり、ラップをするようになっていった。

 

Lamp Eyeとほぼ同時期に活動し始めていたのが、もうひとつのグループ“雷”。メンバーは、RINOさん、GAMAさん、YOU THE ROCK★さん、G.K.MARYANさん、TWIGYさん、DJ PATRICKさん、そしてYASさん。それぞれ、クラブにて知り合ったそうだ。

この2つのグループにおいて、YASさんはトラック制作やライブ時のDJを務めていた。
YASさんは、その頃を振り返る。
「『いつか俺たちも日本のHIP HOP流行らせて、これで食べられるようになりたい』って。本当その一心。本当それだけ。日本語ラップって絶対格好いいから、それがもっと生えるビートを俺は作るんだ、っていう思いで、その志、ぶれない志で毎日。他の遊びは一切しなかったからね、友達と飲みに行くとか旅行に行くとか、もう全部断ってたから、そういう友達とはその時期疎遠になっちゃって。」

CDデビューに至る

90年代初頭から渋谷に”CAVE”というクラブがあった。YASさんは、93年頃から、補欠としてしばしばDJをさせてもらっていたそうだ。
94年にCAVEでHouse to DJ(=お店で雇う箱付きのDJ)の募集があり、YASさんは立候補し、見事採用された。仕事の内容としては、基本は出勤して、DJ周り、機材周りのケア(現在でいうPAさんの役割に近い)をする、週末はDJをやらせてもらう、といったものだ。

 

その傍、グループ活動を行っていた。
その後95年にCAVEでHIP HOP専門のレーベル立ち上げる運びとなり、一発目のアーティストとして白羽の矢がたったのがRINOさんだった。高木完氏プロデュースによるものであった。そこで、数年前からRINOさんと共に活動をしているYASさんがトラック制作を任されることとなった。95年6月、マキシシングル“下克上”をリリース。これがデビュー作である。そこから人生が変わり始めた。

それまでは、自己紹介しないと自分の名前を知られなかったのが、名乗らなくても「DJ YASさんですよね?」と声をかけられるように。これが、24歳のときである。

伝説の楽曲 “証言”

その後CAVEのレーベルとは一時仲違いし、クビになる。
しかし、その頃には、すでにあの“証言”のレコーディングを開始していた。
“証言”制作にあたり、もともと仲間であった、Lamp Eyeのメンバーと、雷のメンバーに、ZEEBRAさんとDEV LARGEさんをメンバーに加え、レコーディングを進めた。

 

ZEEBRAさん、DEV LARGEさんもちょうど同じ95年にデビューした同世代のアーティストであった。“証言”のメンバーにおいては、YOU THE ROCK★さんとTWIGYさんがそれより先にデビューしていたのを除いては、全員95年デビューだそう。その共通項もあり、一緒にラップリレーの曲をつくろう、となった。

YASさんのデビュー作“下克上”が、当時のヒットチャートのひとつの指標であった“シブヤ チャート”で5位にランクインし、デビュー作の時点で、注目される存在にはなっていた。それにより、多少はレコーディングスタジオの費用を安くしてもらえたりもしたそうだが、それでも一回に11、2万くらいはかかった。当時は、家で作れるような便利な機械も当然ないので、レコーディングに乗り出す人自体一握りだった。

 

95年末にレコーディングが完了、96年にリリース。
リリースまでに、3回録り直したそうだ。7人ものラッパーでマイクリレーをしたのは、全員にとって初めての試み(そもそも本格的に行ったのは恐らく日本で初)だったし、全員の思いがとにかく熱く、納得いくまでレコーディングを行った。

「当時は日本語でラップしてるだけで笑われてたような時代だったから。絶対これを変えてやるって気持ちが強くて。上しか見てなかったから。絶対世の中ひっくり返してやるっていうことで共通してたから、そのエネルギーがあの曲には込められている。だからリスナーの人にも共感を持ってもらえたのかな。」
YASさんはそのように語る。

 

“証言”リリースとほぼ同時期に、かの有名な伝説のHIP HOPイベント“さんピンCAMP”が開催された。HIP HOPイベントはかなり増えてきている時期ではあったが、日本での大規模のHIP HOPイベントはこれが初といえるだろう。
さんピンCAMPにて、“証言”を披露。レコードをステージから客席に投げ配ったそうだ。

さんピンCAMPと同年には、 カミナリ主催の ”鬼だまり” (クラブチッタ川崎にて開催)で”証言”披露。計4回公演し、大晦日には1,800人を動員した。

 

〜 part2へ続く 〜

May 1st / 2020

Interview & Writing: Jasmine

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